05-長遠寺

 

 

海岳山大乗院長遠寺由緒

長遠寺は、海岳山大乗院長遠寺といい、真言宗智山派(総本山京都東山智積院)に属している。昔は、等々力の満願寺、六郷の宝憧院と共に荏原郡の三本寺と言われた。

烏羽天皇の天仁元年(西暦一一〇八)、醍醐寺義範・二宝院勝覚等に学んだ宥尊上人の草創で、本尊は不動明王。始めは馬込邑堂寺に建立されたが、建武年間、新田・足利両氏の兵乱に際して堂宇焼尽して、寺運も衰頽し、後に、後拍原天皇の文亀二年(一五〇二)現在の地に移り、元禄年間徳川綱吉け時代、快慶法印によって諸堂が復興された。

草創以未宮家との因縁深く、光格天皇の文化年聞(一八〇四∫一八一七)覚存和尚の代に至って宮家の御印信を賜わり、光明心院を兼帯し、三宝院の宮家の御院家跡職を勤め、持に緋衣の允可、並びに、赤網代輿を差し許された。現存の本堂は、光明天皇の文久元年(一八六一)宥円和尚によって再建され、さらに、現住・第三十七世河原晨晴和尚によって昭和四十八年に改体復元工事が行なわれた。また、平成二年、河原晨晴和尚は客殿・庫裏を新築、境内整備等も行い、現在にいたっている。

明治初年までは、馬込八幡宮以下十二社の別当職を勤め、大井未福寺以下末寺九ケ寺を有していたが、現在は只一ケ寺を有するのみとなった。

現在内陣に合礼してある十一面観音は、もと上大崎六軒茶屋光雲寺の本尊で、神亀元年(七二四)六月十七日、行基菩薩が信州戸隠山の山中で霊感によって一刀三礼して刻まれたと伝えられている。俗に鎌作観音と呼ばれ、近隣に多くの信者を有していたが、明治初年に同寺が廃寺となり、当寺に移された。第二次世界大戦以前までは、鎌作観音の縁日である十二月十七日に農具などの市がたち、なかなかの賑わいを見せたと言われている。この鎌作観音は、現在、大田区指定文化財となっている。

また、「新編武蔵風土記」には、次のように記されている。村の旧記によると定海という僧が当寺を草創し、後に、元弘二年(一三ニニ)に寂したとあるから、この人が開山であろう。しかし、寺で開山としているのは、定尊である。この僧の事歴や寂年は伝えられていないので、いつの頃とは言えないが、中興の僧であろうか。後に、元禄年間に快慶が住持した時、当寺を再興して、檀林寺格としたので、この人を中興開基としている。

平成七年六月一日 第三十七世法資 達雄誌す

 

 

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